madame galerienneが目にした贋作

ギャラリーウォッチングをしていた時のこと、カメラの骨董屋を見つけた。
そこにデカデカと展示された金縁のわくに納められた1枚の絵が目をひいた。
ピアノを前に長い髪の少女。黄緑に近い色のドレスを身につけていた。
記憶は定かではないが、ピエール・オーギュスト・ルノワール?
価格は20万と表示されていた。

気になる部分がありながらもずーっと眺めていた。
そしたら年配の品のいい女性が出てきて声をかけてきた。
”ルノワールみたいだけどルノワールじゃなさそう。”
ふと漏らした独り言に相手は答えてきた。
”実はある有名な画家が描いたルノワールの作品なのです。”

模写? それとも贋作?
“Renoir”のサインがあるから贋作なのだろう。
それにしても上手だなーというのが感想。
どういうルーツでこの店にたどり着いたのかわからないが、
この絵を所有していた人物が、絵とともに幸せな人生を送っていたとすれば、
それはそれでいいじゃないか。内心おもった。
画材だけでも高かっただろうに。

”でも気になるところが一か所”と話すと、
”首の部分ですか?”との返事。

キャンバスの損傷なのか傷なのか。
場所が場所だけに致命的としかいいようがなかった。
店の人はそのことをわかった上で展示していたのだ。
あの傷がもっと別なところにあれば良かっただろうに!

1970年代後半、美術界を憤然とさせた出来事があった。
トム・キーティング。
絵画の修復師であるとともに、
巨匠のテクニックを駆使して描いたにせものは、2,000点にもぼるという。
彼の作品は日本にも存在するのだろうか?
そんなことを考えたひとときでもあった。
その店は数ヶ月だけ存在し、いまは陰も形もない。

いずれにせよ疑問が生じたり、気に入らない部分があるとすれば
その絵は買わない方が無難なのだ。

ギャラリエンヌ (galerienne)

自称”絵買い貧乏”。
絵を買ってスッカラカンになるたびに、絵画を見る頻度は高くなった。
絵画にとりつかれたとでも言おうか。
美術館のみならず、街を歩いていて
目に入る絵があればずーっと立ち止まってしまう。

”お客さん、気に入った服があれば試着してかまいませんよ。”
店員の声。服に興味があったのではなく、
絵に惹かれて入ったブティックでの1コマ。
こういうことは数しれない。
ギャラリーはもちろん 新聞で目にする個展案内。
ありとあらゆるところに足を運んだ。

息子をおんぶし、娘の手を引いて。いつもこういう出で立ちだった。
フランスの美術館巡りをしたときも、同様の格好。
日本美術館の入場料は高すぎる。
パリはメトロに乗りさえすれば、低料金でどこにでも行ける。
ルーブル、オランジェリー、オルセー美術館、子供はみんなただだった。
だから、宿泊費と交通費を除いて、所持金3万5000円。
これで1週間過ごせた。これは余談。

絵は身近な場所にあるものをながめるのが一番だと思う。
時としてギャラリーウォッチングをするということもあるが、
ギャラリーは敷居が高くて入りにくいと言う人は、
”貸しギャラリー”での個展がおすすめ。
目を肥やしていくのだ。

一方、企画ギャラリーはオーナーの目によって厳選されたもの。
良いものもある代わり値段も張る。
清水の舞台から飛び降りる覚悟で買うと言うこともある。
そうして見えてくるものがある。
描く人、売る人、買う人、みんな大変だと言うこと。
それぞれに生活がかかっているのだから。

”絵画愛好家”、”絵買い貧乏”。
貧乏はあまりにもみじめったらしい。
ギャラリーのオーナーもしくは店員がギャラリストとすれば、
私はギャラリエンヌ。(こんな単語が辞書に載っているか分からないが)
今日から”絵買い貧乏”改め”ギャラリエンヌ”にしよう。
ちょっと格好がつくかなあ。