世界の水準は高い。

9月の終わり頃、個展の案内が新聞に掲載された。
蝶で埋め尽くされた大きなキャンバス。
まるでエッシャーを思わせる作品が目を引いた。
ニューヨークの企画展にも出品したと言うその作家は27歳。
現代美術作家という肩書き。
過去にも、美術作家という肩書きの名刺をくれた若者がいた。
彼も大学卒業したばかりの20代。
若くして美術家として身を立てる意気込みはすごいと感じたし、
作品自体も肩書きに負けないほどの力をもっていた。
その彼と新聞の作家がダブって見えた。
知る限り、これで2人目。美術作家と名乗る若者は。

興味津々、個展へ足を運ぶ行為。それ自体わくわく、ドキドキの瞬間である。
その作家の作品が並んだ空間に身を置いたときの雰囲気、これが何ともいい。
この雰囲気は個々の作家で違ってくるからおもしろい。
人を区別するのに“指紋”があるように、筆のタッチも異なる。
個展という会場の中で、優しさに包まれた自分を見いだす時もあれば、
緊張感が立ちこめ、我を忘れて、ただ呆然と絵を眺めているということもある。
その中で、好きな絵と出会うときの喜びは、何事にも代え難いものである。
観る側も色々イメージをふくらませて、会場へと行くのだ。

家族連れ、若者から年配の方まで、たくさんの人が訪れていた。
人と人の隙間から眺めた絵だったが、いろんなジャンルの作品かけられていた。

 宮崎の風景を浮世絵化したものが3点
”えびの”を描いた作品を真っ先に思い出す。

 フランスのモンサンミッシェル寺院
山が浮遊しているような描き方で幻想的。
子供と一緒にみたアニメにも通じるような光景。
引き潮の時は地続き、満ち潮の時は人の背より高くなる寺院。
そうフランス人に聞いた。
こっちの世界から隔離された世界はどんなところ?
一度訪れてみたい場所だ。

 蝶をテーマにする作品が一番多かった。
金箔や銀箔で埋め尽くされたキャンバス、そこに群がる蝶。大作が何点もあった。
個人的に好きだったのは、
小作品ながら薄紫に塗られたキャンバスの上・角に描かれた1匹の蝶。
ざわついた会場の中、静けさを取り戻した一瞬。
この作品に込められた作者の“思い”は如何に。

「何をみてこられたのですか」
 後ろにいた背の高い人が声をかけてきた。
「新聞です」
 浮世絵の話をしていくうちに誰に影響を受けたのか興味がわき、
「どんな作家が好みですか。」
 と尋ねた。
「好きな画家は、アルフォンス・ミュシャ、伊藤若沖、歌川広重・・・・」
「広重のような絵が描けたらいいと思っています。」
 とも語ってくれた。会話はまだ続く。
「ニューヨークの美術館はどこが好きですか?」
「メトロポリタン美術館」
「画廊は?」
「MOMA チェルシー・・・・」

「日本画風というか、日本を意識した作品が多いですね。箔もたくさん使っているし」
「ごめんなさい。私、思ったことを何でも言ってしまって」
「作家としては、どういう印象を受けたのか一番気になるところです」
「世界の水準は高く、人にみてもらうと言うことを考えるとどうしても・・・・・」
 世界を意識していると思われる解答が返ってきた。
 日本画を現代アートとして世界に発信しようと言う作家の姿に脱帽だ。 

「絵を描かれるのですか?」
「ノン」
 私はギャラリエンヌなんだぞ。
 自分のできないものを相手が持っている。
 そこに価値を見いだすのが私の仕事・・・と心に言い聞かせる。

日本の作品で海外で通用するのは、
「浮世絵」と「藤田嗣治の作品」位のものと昔雑誌で読んだことがある。
その評価は、今もあまり変わらないのかもしれない。
最近話題になった江戸絵画の第一人者”若沖”も、
外国人蒐集家によって見いだされたのだから。
子供の視点で捉えても分かりやすく、
アニメ・現代アートの原点がこの時代にあったのに改めて驚かされた。

現在の日本の絵画。すぐれた作品はたくさんあるが、それで満足したらおしまい。
海外の作品を一緒に展示すると、
目はそちらの方に奪われる。(草間 弥生は別として)
過去に紹介したホセ・ルイス・クエーバス、ロイ・リキテンシュタインなどがそうだ。
特にリキテンシュタインの”ノック ノック”はポスターではあるけれども、
ドアをノックしたら今にも扉が開きそうな迫力のあるポップアートで、
駆け出しのギャラリエンヌだった頃出会って衝撃を受けた作品の1つだ。
単純明快な線。省けるところはすべて排除。
”knock knock”という文字と扉のイラスト。ただそれだけ。
この瞬間、油絵だから価値があるとか、
大量生産された版画やポスターは油絵よりも劣るなどという観念は、
全くと言っていいほど消え去った。
K氏も、ニューヨークで日本と世界のレベルの差を肌身で感じたに違いない。
 
「今度またニューヨークで個展します。その時は、ぜひニューヨークに来てください」
 と言う声を背に、会場を後にした。

ニューヨークで会いましょう?
それもいいなあ。家族を引き連れご一行様で。
内心そうつぶやいた。
さわやかな個展だった。

madame galerienneが目にした贋作

ギャラリーウォッチングをしていた時のこと、カメラの骨董屋を見つけた。
そこにデカデカと展示された金縁のわくに納められた1枚の絵が目をひいた。
ピアノを前に長い髪の少女。黄緑に近い色のドレスを身につけていた。
記憶は定かではないが、ピエール・オーギュスト・ルノワール?
価格は20万と表示されていた。

気になる部分がありながらもずーっと眺めていた。
そしたら年配の品のいい女性が出てきて声をかけてきた。
”ルノワールみたいだけどルノワールじゃなさそう。”
ふと漏らした独り言に相手は答えてきた。
”実はある有名な画家が描いたルノワールの作品なのです。”

模写? それとも贋作?
“Renoir”のサインがあるから贋作なのだろう。
それにしても上手だなーというのが感想。
どういうルーツでこの店にたどり着いたのかわからないが、
この絵を所有していた人物が、絵とともに幸せな人生を送っていたとすれば、
それはそれでいいじゃないか。内心おもった。
画材だけでも高かっただろうに。

”でも気になるところが一か所”と話すと、
”首の部分ですか?”との返事。

キャンバスの損傷なのか傷なのか。
場所が場所だけに致命的としかいいようがなかった。
店の人はそのことをわかった上で展示していたのだ。
あの傷がもっと別なところにあれば良かっただろうに!

1970年代後半、美術界を憤然とさせた出来事があった。
トム・キーティング。
絵画の修復師であるとともに、
巨匠のテクニックを駆使して描いたにせものは、2,000点にもぼるという。
彼の作品は日本にも存在するのだろうか?
そんなことを考えたひとときでもあった。
その店は数ヶ月だけ存在し、いまは陰も形もない。

いずれにせよ疑問が生じたり、気に入らない部分があるとすれば
その絵は買わない方が無難なのだ。